アナウンサーズマガジン

画面では決して見ることの出来ないアナの表情が満載!番組への意気込みや裏話も アナ本人の文章で紹介。

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「日本選手権では、ありがとうございます!福岡の実家にVTRを送ったら親父が喜んでくれました。」

初年度のラグビートップリーグがスタートする直前の記者発表があった2003年9月、思いがけず握手を求められました。握手の相手は東芝府中(現在は東芝)ブレイブルーパスの冨岡鉄平主将。今季で勇退した薫田真広監督とともに5年間チームを引っ張り、トップリーグ、日本選手権、マイクロソフト杯合わせて8度の優勝を手にしました。


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同年2月の日本選手権で東芝府中の中継を担当した私は、まだ25歳でレギュラーを目指していた時期の冨岡選手を主将に指名した理由を、就任一年目だった薫田監督に尋ね、「彼はチームに一番必要な “熱”(熱い気持)をもっていたから。」 という答えを頂き、実況に盛り込みました。とてもニュアンスを全ては伝えきれない拙い喋りですが、冨岡主将のみならずお父様が喜んでくださった事は、自分自身にとっても大きな励みでした。

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以来取材を重ねる度に、冨岡主将の “熱” に心を打たれ続けています。練習後には足を動かすのも苦しい打撲を負いながらも「ごめん、ごめん」 と当たり前の様に、一時離れた練習の輪に戻っていく姿は幾度となく目にしました…「ある段階までは、メンタル面をしっかりする事でチームは強くなる。」 と冨岡主将が感じたのは福岡工業大学時代。
九州学生リーグで2年時には157対0で負けた福岡大学を相手に、4年時には敗れたものの24対12。リーグ最下位だったチームは2年間で、あと一歩で大学選手権出場というステップを駆け上がりました。

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一方で、自ら率先した “熱” を決して人に押し付けません。練習後の帰り際にある選手が、うつむいたままチームメイトに挨拶せず通り過ぎたことがありました。冨岡主将は黙って優しい表情で控え目に見つめています。後で冨岡主将に「立場上(その選手の)様子が気になって、心に尾を引いてしまうことはありませんか?」 と伺ったところ「必要と感じたらもちろん声をかけます。でも、僕もチームメイトもお互い考えていることは分かっていますから、そっとしておきました。」 という答え。「過去には失言もしました。」 と謙遜しますが、試合後のインタビューでは飾らない自分の言葉で対戦相手を賞賛し、反省し、無理なく周りの人に配慮した発言を選べる…冨岡主将のきめ細かい魅力を垣間見た気がします。

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5年間勤めた主将の感想を聞くと「皆が本当にたくましくなった。 例えば1年後輩でロックの大野! 彼が初めて福島から上京して東芝のグラウンドに来た時、 ネクタイの結び方を知らなくて固結びをしていました。 結び目を解いて、ネクタイを締め直したことが大野との出会い。 でも、今や日本代表に欠かせない一流の選手になってくれました。」話の殆どは機知に富みながら、チームメイトを称えるものでした。

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今年2月25日には日本選手権連覇。
チームメイトに胴上げされた冨岡主将は、同時にボトルに入った水をたくさん浴びて祝福されました。薫田監督が 「冨岡は主将になる前、 いじられる(親愛をもってからかわれる?)キャラクターでもありました。」 と言っていたことが少々納得...。

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薫田監督は東芝の指揮を執る最後のシーズンに冨岡主将がMVPを獲得し、心から喜びました。“最高の主将” と評します。冨岡主将は 「薫田さんに巡り会わなければ、今の自分はなかった。 今までの人生で人との出会いに関しては 『自分の強運』 を信じています。」 と話してくれました。

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…去年12月、活躍を喜んでいた冨岡主将のお父様が亡くなられました。
冨岡主将は悲しみを堪え、訃報から3日後の神戸製鋼を戦い主将の役割を果たしました。精神的にも厳しかったと思いますが 「今シーズンは気持の面では充実できました。」 と振返ります。

次のシーズン、主将は一人の選手に戻って新たな戦いに挑戦。選手、さらに将来はもしかしたら指導者としての “熱” をこれからもお伝えできることが楽しみです。ラグビー中継を通じた出会いは、私にとっても強運だと思います。

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