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神奈川ビジネスUp To Date

神奈川ビジネスUp To Date

神奈川ビジネスUp To Date

5月30日放送分
「老舗企業の経営哲学と小田原への想い」 ↑メニューへ戻る

ゲスト
株式会ういろう
代表取締役 外郎(ういろう)武さん


【プロフィール】
1962年生まれ
成蹊大学経済学部卒業後、三菱信託銀行入社
2004年外郎本家より後継者指名を受けて本家に入る
2007年に横浜薬科大学入学、2013年に卒業、薬剤師国家試験合格


神奈川県内最古の老舗企業「株式会社ういろう」を紹介。北条早雲の招きで京都から小田原へ移りおよそ500年。一子相伝の薬とお菓子のういろうを製造・販売する老舗企業に受け継がれてきた「ものづくり」へ考え方や経営哲学、地元・小田原への想いなどについて、25代目の外郎武(ういろう・たけし)社長に伺います。

内田
「ういろう」というお菓子は、大変有名なんですけれども、こちらが発祥の家ということなんですよね?

外郎
そうなんです。小田原の外郎家、私たちの家がですね、商いをしている株式会社ういろうが、今、本家本元としてずっと(ういろうを)作り続けています。

内田
「ういろう」というお菓子は、どれくらい作り続けているのですか。

外郎
2代目が京都に在住した折に、国賓へのおもてなしのお菓子として黒糖と米粉を蒸して作ったのがはじまりですので、1400年頃、外国使節団の接待役を仰せつかった時に作り始めましたので、それ以来ずっと我々は一子相伝で守り作り続けています。

内田
「ういろう」というもの、我々が知っているものはお菓子なんですけれども、私は演劇を勉強していたので「外郎売」というセリフを授業なり訓練なりで何度も何度も読まされまして諳んじることができるわけですね。相州小田原透頂香ということで、これ薬なんですよね。

外郎
実は、「ういろう」というとお菓子と、もうひとつ、薬の「ういろう」を今でも作り続けていまして、今おっしゃっていただきました「透頂香」、今これがみなさんに一般的に「ういろう」というふうに愛称で呼んでいただいている薬の正式な名称です。

内田
小田原でやり続けて500年。

外郎
小田原で500年です。

内田
様々なこれまでの紆余曲折、歴史があると思うのですけれども、これまでの経営危機といいますか、500年もやっていると「もう、ダメなんじゃないか」、「続かないんじゃないか」というところが幾つかあったかと思うのですが。

外郎
小田原に来てからで紹介しますと、まず、豊臣秀吉の小田原攻め。この時に、私ども実は、商人という一面もありましたけれども、北条五代には軍師として仕えていて、最後の籠城戦にも参戦しています。当然、小田原城開城となった時に北条家は小田原から追放ということになりましたし、当然重臣たちもそうなりました。それから、江戸の町を造るために大工や職人は皆連れていかれました。我々も薬というものがひとつの商いでしたので当然、家の存続、それから残ってもここではなく江戸にそのまま連れていかれてもおかしくなかったと思います。もうひとつ、太平洋戦争の時。企業統制令というものが出されました。いろんな各業種を「各都道府県で1社に統合せよ」という命令なんですけれども、神奈川県内でも薬の製造会社が20社位あったそうなんですけれども、それを1社にまとめよという話になりました。その時に当時の神奈川県知事の近藤さんという方が、「この家をそういった規制で統廃合して絶やすことは惜しい」ということで掛け合っていただきまして、特例で存続が許されたということがあります。これも、家の歴史というのが一つのテーマとして当時の新聞などには載ってはいますが、見えないところでは、地元の人たちが知事への嘆願をしてくれたおかげだと考えています。

内田
歴史の書物とかを拝見すると、この(小田原の)地にこだわっていて、他では「ういろう」を売らないと、薬ももちろんそうなんですけれども、ここでしか販売しないということなんですけれども、色々な出店の誘惑であるとか、希望であるとかそういう話は沢山あったかと思うんですが。

外郎
やっぱり、先祖の想いをしっかり受け継いでいきたいんですね。そのために大事なことは、もてなしの気持ちで手渡ししたい。ですから、我々はこのお菓子を毎朝その時の状況を見て手作業、手を加え時間をかけて作っているんですけれども、それをこのお店に来られた方、小田原に来られた方に手渡しでお渡ししたい。外に出ると沢山作って生産の状況も曖昧になります。そうすると当然ですけれども廃棄することも出てくると思うんです。考えてみてください。昔は高価な黒糖を使って作ったお菓子です。我々には廃棄するという考えはありえないんです。ですから、その当時のことをきちっと受け継いでいきたいので、もてなしの気持ちでお渡ししたいということと、無駄に作って捨てるようなことをしてはならない。それを崩してしまって、どんどん作って知名度を上げる方向に走ってしまうと結局私だけではなくて一緒に作ってくれている仲間、社員、彼らも何を作っているのか、何を守っているのか分からなくなってしまうので、そういうことはしない。


二代目市川團十郎がういろうの薬のお世話になったお礼として創作した歌舞伎十八番の一つ「外郎売り」。薬作りも長く続けてきた外郎家ですが、外郎武社長も25代目を継ぐ時に薬剤師の資格を取るために薬科大学に進みました。

内田
外郎社長は、もともとは銀行に勤めていらっしゃったんですよね。事情があって、「ぜひ、外郎家を継いで欲しい」という依頼があった。そして、確か40歳を過ぎてから薬学を学んで薬剤師の国家資格を取ったということなんですけれども、そこまで決断したというのはいろいろと心の中での葛藤がおありになったんですか?

外郎
叔父から「後を託したい」と白羽の矢が立って、この家に家族と共に入った時は、薬剤師ではなかったので、いったんはお断りしているんですよ。薬剤師ではないから、本業の一つである薬を続けるにはいかがなものかというのはあったんですね。だけど、「どうしても」ということで、「(本家に)入って欲しい」ということで入りまして、薬剤師ではなくてもいいという前提では来たんですけれども、1年見ていて、ここに来て薬のことを知らなかったら自分が一生損をするだろうなと思ったのと、先代を見ていて、この建物もそうなんですけれども、先代の思い入れが強くて、その時90歳を超えていましたけれども、この人、ここに命を吹き込んじゃったと。命を吹き込んだものを、その代を僕は受け取れないと思ったんです。人の命が吹き込まれたものをおいそれと次は私でとは簡単には受け取れない。やっぱり先代の気持ちに近づかなくてはならない。でも時間がない。その時に遠回りかもしれないけど、薬への先代の想いを知るためには自分自身が薬をもっと勉強し薬剤師という立場できちっと一子相伝のものを受け継ぐべきだろうというふうに感じたので一念発起して、私は勉強大嫌いだったんですけれども、もう45歳だったので、本来だと迷うべきだったんでしょうが、あの時は、今自分がここにきてやらなければならない事は、先代へ一歩でも近づくことだと、そうしなければ、この家を自分は守れないだろうと。そういう気持ちになったので、気が付いたら大学に通い、気が付いたら苦難な勉強ですか、今振り返ると人生の中でいろんな経験をしたということでは最も充実した6年間でした。

内田
それならばなおさら、「ういろう」という会社を存続させなければならない。次のたすきを渡す相手もしっかりと育てていかなくてはならないとなってきますね。

外郎
今、自分にも息子が一人、長男長女なので、息子が一人、薬科大学の最終学年にいますが、ただ彼には大学に進学するときに言った言葉が、「お前の人生だから、自分の好きにしていい」と高校生の時に言いました。家を守らなければならないというのは私の役目ですけれども、息子にはその役割は私が押し付けるわけにはいかない。まず、彼が、自分で何がしたいのかということの中から見つけてくれなくては、私の後に代を継いで何か大変なことがあった時に乗り切ってくれると思うんです。それが親から宿命として押し付けられたものだったりとか、代々これは継いでいくものだと渡されたら、この家が本当に存続の危機になった時に乗り越えなれないと思うんです。

内田
「そこ(将来)は本人が決めてください」ということは、お父様の姿といいますか、背中を見て、ということも大きいと思うんですよね。

外郎
私が隠居した時に、彼が自分で僕のやってきたことの中で続けなければならない事と、自分が新たにやりたい事と考えると思うんです。僕がやってきた事をこの通りにやれとは一切言わない。ただ、私も先代から学びましたから、それを自分の目で見て、その中で自分が理解をしてこれをやるべきだと判断したものを続けて欲しい。僕はそうやって今の代を進めていますので、息子にもそういう形で、自分の本当に「これをやるべきだ」、「新たにやることはこれだ」ということを始めたら、僕は何もそれに対して言うつもりはない。


6月中旬発売の書籍『「ういろうにみる小田原』(新評論刊)。県内最古の企業・外郎家から見た小田原とは。小田原市観光協会の副会長も務める外郎社長に地元への想いを伺いました。

内田
今度、『「ういろうにみる小田原』という本が出版されるということなんですけれども、外郎社長から見て小田原という地域はどういうところですか?

外郎
歴史と文化が沢山あって、そして環境も良くて、良い街だなというふうに考えています。

内田
街として抱える課題というのもあるかと思うんですが。

外郎
観光名勝として、また情報として沢山のアイテムがあるんですけれども、なかなかきちっと体系立てて、街歩きとして整備されて、またそれを情報発信として、神奈川県外に情報が伝わっているかというとまだまだそうではないのかなぁと思っています。

内田
これはどういうふうにしたら良くなっていくんでしょうか?

外郎
以前から小田原では観光協会がありますし、そういったところでいろんな催事とかやってきているんですけれども、従来型のお城を中心とした催事ではなくて、より観光客が常時小田原の街に来ていただけるような、そういう街をどうやって作っていったらいいかということを協会の内外でいろんな方に話をさせていただいて進めているところです。

内田
これから小田原を盛り上げていくための「外郎家」の役割といいますか、そういうものはどんなものがあると思いますか。

外郎
言葉が少しおかしいかもしれませんが、「時代を越えた恩返し」が私の一つの役割だと思っています。このような老舗が続くには、やはり街が活性化していかないと、家だけでは存続できませんよね。一緒に盛り上がっていきたい、そのためにいろんなことをやっていきたい。例えば、私どもの駐車場を箱根駅伝の時もそうですし、町内のお祭りの時とか、いろんなところで駐車場をイベント会場として提供して、ここでみなさんに楽しんでいただくということもやっています。

内田
そういう意味では、500年の歴史を持って小田原でずっと生き続けてきているわけですから、そこでリーダーシップをとっていくという部分では外郎さんは相応しいのでしょうね。

外郎
小田原がどれだけ歴史がある街なのかという一つの証として、我々が元々関係している文化。例えば、京都の祇園祭、そこに蟷螂山というカマキリの山鉾があるんです。これが私どもの2代目が創始したんですけれども、今そことも交流をさせていただいています。それからその山の流れを組む稚児舞が遠州森町に残っていて、これが中世の舞楽で素晴らしいんですよ。その舞は実は、先代夫婦が亡くなった時に新盆供養に森町の人たちがバス1台に乗ってその駐車場で踊ってくれたんです。我々の家の文化もできるだけ小田原の街の文化と繋いでいただいて、それだけ小田原は歴史があるまちだという証に上手く使っていただきたい。

内田
そういう「深い歴史がある外郎家が小田原にいるよ」ということで、小田原の人たちも誇りに思えるものになっていくんでしょうね。

外郎
そういうふうになっていただけたら、我々としても本望ですし、是非、皆さんとこのような文化を共有していきたいと考えています。

内田
今まで外郎さんの話を聞いていると、外にどんどん出ていかない、自分たちの一子相伝のものを守っていくんだという、ものづくりの考え方が素晴らしい。でも、小田原という街のことを考えたら、そういうものを広く知らしめていかなくてはならないという部分で、内向きな部分と外向きに発信する部分と上手くバランスをとるタイミングを考えているのかなと思うのですが。

外郎
コア業務をいかにしてきちっと守るかということと、その中で我々が持っている歴史的な文化とか資産をどうやって小田原の街に上手く活用していただくか、そういうことを考えながら、そして私もそうですし、仲間の社員たちも地元との交流の中で楽しくやっていく。これが大事なんです。家業を継ぐということは苦行ではないんです。地域の人たちと楽しくいろんなことをやっていくことで、気が付くと100年、200年、600年って、この先も続いていけばいいなと思うし。小田原だったら一軒の家だけで、「ういろう」だけで繋がっているだけではない。きちっと京都や森町と、歌舞伎の世界でも、遠く離れた地域でも我々に目を向けていただいている。それを一つの励みにしてきちっとこの家を守っていく。それを次の代にも繋げていきたいと思います。



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特徴ある製品・サービスを紹介
「ビジネスのヒゲ」

揚げることへの挑戦・時代をリードする荷揚げ機「疾風」
ユニパー(横浜市都筑区)

5月23日放送分
「時代と顧客のニーズを掴む横浜中華街を支える経営論」 ↑メニューへ戻る

ゲスト
株式会社重慶飯店
代表取締役社長 李宏道さん


【プロフィール】
1959年横浜市生まれ
国立台湾大学工学院 造船工程学科卒業
1991年重慶飯店代表取締役社長、2003年ローズホテルズ・インターナショナル代表取締役社長に就任
2012年横浜中華街発展会協同組合理事長に就任


横浜中華街の老舗四川料理店「重慶飯店」を特集。人気の点心や中華菓子の販売を拡大する一方、ホテル経営も手がけるなど多方面で事業を展開。そこにはゲストのニーズに応え続けてきた歴史がありました。中華街のさらなる発展にもつながる「独自の戦略」について、李宏道社長に伺いました。

内田
1959年に開業ということで、今や中華街の名店となっている重慶飯店ですが、ご両親が横浜中華街の発展にいろいろ影響を与えてこられたと思います。これはご覧になっていてどういうことが挙げられますか?


やはりあの両親のですね、本当に努力ですね。朝から晩まで頑張ってお仕事をされたということ。これはうちの両親だけでなく中華街の先代の方々、皆同じだと思います。皆日本の国で成功を収めるということが、何よりも自分たちの成果ということではないかと思います。

内田
「ランチメニュー」を中華街で初めて取り入れた。あと「お土産」というものを、今でこそ中華街にお土産店はたくさんありますけども、初めてされたということですが。


父も母もアイディアマンでした。やはりお客様目線で、どのようにお客様に喜んでいただけるかということで、ランチメニューは今では当たり前ですが、サラリーマン向けに短時間で、メニューを選ぶというよりも、全部コースメニューですぐに選べる、単純明快にわかりやすいものを出したというのが当たったんだと思います。

内田
中華街というのは本当に大小数多くのお店がひしめきあっていて、一つの空間の中にあって、競争もとてつもないものだと思います。その中で成功していくお店、消えていくお店がありますが、これを分かつものとは何ですか?


やはり待っていてはダメですね、お客様を。お客様を取りにいかなければいけない、迎えにいかなければいけない、という事ですよね。それはどうすればいいかというと「マーケティング」です。どういうお客様に来てもらいたいのか、どういうニーズがあるのか。そういう事を常日ごろ研究して、そしてアイディアを出して、それが成功しない時もありますけど、トライアルアンドエラーをしながらやっていく。チャレンジですよね。やはりチャレンジをして、どこかで一つの突破口で必ず当たるものはありますから、それをやり続けるということです。やればやるほど学びますから、そうしたら今度はこれじゃなくて、こっちの方法で行こうということになりますよね。今はもう嬉しいことにデータというものがありますから、データをうまく活用してそういうことができますし、時代は今本当に幸せですね。

内田
すごいですね、マーケティングも今は全部コンピューター管理でやってらっしゃると。想像以上に先端を行ってらっしゃるんですね。


頑張ってます。

内田
今ホテル事業も非常に好調だという風にお聞きしていますが、そういうチャレンジが、お店の経営の方に生かされている部分はありますか?


ホテルの場合はやはり「宿泊」と「宴会」と「婚礼」というものがあります。宿泊の部分については、これはもうはっきり言って国内のお客様だけでなく、今はもうインバウンドも含めてかなり増えてますから、そういうインバウンドのお客様に対してもどのようにアプローチしていけばいいのか、ということで私も海外に出かけてお客様を引っ張ってきていますので。

内田
例えば海外ではどういう活動をされているのですか。


旅行社まわりから各企業関係だったり、是非次回来る時は横浜に寄ってください、泊まってください、こう言う楽しみ方がありますよ、ということでやっています。


重慶飯店の人気商品「中華菓子」や「点心」。4年前にオープンさせた食品工場で点心30アイテム、中華菓子100アイテムを製造。そのほとんどを職人の手作業で行っています。ブランド力を生かした「外販」に力を入れ、「飲食店」「ホテル」に続く事業に育て上げました。

内田
食品工場に思い切った投資をして、これはやはり大きなチャレンジということでよろしいですか?


私ども重慶飯店というブランドの下で、料理だけでなく中華菓子、また点心という分野で食品事業として実施しています。そのお土産という部分で日本全国に広めていく、そういうことを今やっています。

内田
それはインバウンド向けじゃなく、自分たちの商品をどんどん送り込んでいくということですね。


先ほども言いましたが、やはりお客様を取りにいかなければいけない。

内田
おっしゃってましたね。待っていてはいけないと。


通信販売、流通を含めて私どもの商品が販売されるということを狙っています。

内田
本当に重慶飯店のブランドの名に恥じない美味しいものを作るということは、簡単ではないですよね。


美味しいものはどこでも作れると思います。私どもの新しい工場では、国際基準のISO22000という認証を得ていますが、これはなぜかというと「時代」です。時代とともに衛生面、安心、安全な部分ということで、お客様のニーズがそういうものを望んでいます。そういう製品を私ども重慶飯店が提供していくこと、それがお客様への信頼を獲得できる、リピートしていただくということだと思います。


横浜を代表する観光地・横浜中華街の顔役としても活動する李社長。中華街全体を盛り上げるとともに、隣接する元町や山下公園通り、関内、馬車道などの周辺地域と連携したイベントを行うことによって、横浜中心部の活性化を図っています。

内田
中華街全体を取り仕切るという役をされていますが、この中華街というものを俯瞰して見たときに、新旧入れ替わりの流れもあると思います。このあたりは、新しい中華街のイメージに何か影響を与えていますか。


街というのは代々変わっていきますから、結局その店舗の運営も変わっていくというのはやむをえないと思います。時代にあった店舗の運営をしていただくというのが私どもの願いです。ですから同じ志で経営をしてもらうということがポイントだと思います。同じ志で、同じ考え方を持って、同じベクトルに走っていく。何しろまた来たくなる横浜中華街を目指そうよと。安全安心で快適ということを言っています。

内田
街の魅力というのは多様性だと思います。色々なものが含まれているからこそ面白みというものが出てくる。でも最低限、一貫して守っていこうというルールがないとお客様は安心できないわけですよね。そういうものを理事長として訴えているということですか?


中華街は単なるショッピングモールとは違うんです。歴史なんです。やはりお寺が二つ、媽祖廟と関帝廟ありますし、ですから文化、私どもの父母、祖父祖母を含め、そういう時代が作り上げてきたのが中華街なんです。ですからお金じゃ買えない歴史と、その存在があるんです。母国からこの日本に来て、ニューフロンティアでビジネスを立ち上げ、成功させて、それで次の代に引き継いでいく。やはりそれには文化が永遠と付いていくということだと思うんです。それをやはり引き継いでいくということがすごく大事なことなのではと思います。

内田
やはりその歴史なり文化なりを遺すためには、大勢の方達からそれを理解してもらわなければいけないわけですよね。横浜中華街はまさにそのパイプ役と言いますか、日本の良さも伝えてくださるし、台湾、中国の方達もすごくよく受け入れて下さって、という部分があります。やはり拠点として非常にユニークな役割を果たすのではと思いますが、いかがですか。


一つの日本の中の台湾、中国ということではないのかなと思います。やはり一番身近に来れる中華街ということであって、そうあるべきで、観光スポットとしてだけでなく、歴史、文化を伝える。そういう場として長く続けていくべきだと思っています。

内田
Y157(横浜セントラルタウンフェスティバル=馬車道・関内・山下公園通り・横浜中華街・元町山手が連携した地域イベント)、この連携をする意味、メリットはどういうところにありますか?


それぞれの街は皆、違う考えの中で経営をして、生活をしています。この一つのY157というお祭りを通して、5つのエリアの方々が一体となって情報交換をして、一緒に汗を流して、お祭りを楽しむ。そして外からもお客様をお迎えして、喜んでいただいて、もっと活性化しようということだと思います。

内田
これまでは横浜中華街、元町・山手、山下公園通り、関内、馬車道はそれぞれバラバラだったということですか。


バラバラというか、個々がエリアごとにお祭りをしたり、いろいろ会合をしたりしていました。やはりその点と点が線になり、面になる。それが一つのパワー、力ですよね。

内田
そういうパワーを持ってこれから地域としての力、魅力、集客力をつけていく。この本当の意味、動機の原点の部分というのはなんですか。


やはり助け合うということではないでしょうか。皆がWINNERだけではないですから、皆が一緒になってWIN-WINでできるような場として、面としてやっていくことによって、集客もできるし、また魅力も一段と増えるし、そして滞在力。お客様がお見えになってもただ2時間ぐらいで帰るのではなく、1泊、2泊、いや3泊してもらえる。そういうことによって、お金も落としていただけるということだと思います。

内田
でもそれぞれの街がプライドを持って、歴史もあってというと、まとめ役は大変じゃないですか。


時代じゃないですか。そういうことをやらなければ負けてしまいます。

内田
経営者として、横浜中華街発展会協同組合の理事長としてスケジュールのコントロール、タイムマネジメントというのはどのようにお考えですか。


1日28時間あっても足りないですね。何しろ有言実行を含めて、時間を大事に効率よく使うというのが私のモットーでありますので。だらだらするのが嫌いです。合理化、効率ということをモットーにタイムマネジメントをしています。

内田
今一番力を入れているものはなんですか。


仕事以外では汗をかくこと。マラソンをしながら、また違うチャレンジをしていくということではないのかなと思います。

内田
時には忙しくて、いろいろ付き合いもあって、今日は嫌だな、疲れたな、眠りたいなという時もありますよね?


ないですね。

内田
失礼いたしました、ないんですね。決めたことはしっかりやると。


はい、決めたことはしっかりやります。

内田
本当に合理的に1日を充実して過ごしていくということを繰り返していくと、何が待っているんですか?


やはり達成感と、成功。今も成功はしていませんが、マラソンと同じだと思います。42キロフルを目標にするんじゃなくて、5キロ5キロ刻んでその達成感を喜んで、それからまた次に行く。そうして忘れた頃には42キロ終わっている、そういうことではないのでしょうか。



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特徴ある製品・サービスを紹介
「ビジネスのヒゲ」

アウトドアライフをテーマにリノベーション不動産販売
リノベ不動産(横浜市神奈川区)

5月16日放送分
「不動産業界に新風齎すベンチャー企業」↑メニューへ戻る

ゲスト
横濱コーポレーション株式会社
代表取締役 菅沼勇基さん


【プロフィール】
1985年横浜市緑区出身
横浜市立大学卒業後、不動産会社勤務を経て2012年に株式会社横濱コーポレーションを設立、代表取締役を務める


今年で創業4年目を迎える新進気鋭のベンチャー企業、横濱コーポレーションを特集。横浜に特化した収益用不動産の一棟売りを専門に、売買、仲介、賃貸管理などを行う不動産会社の起業の経緯や将来のビジョンなどについて伺います。

内田
菅沼社長は学生時代のアルバイトで、大手量販店で販売をされていたと聞いています。テレビをかなり売ったということですが。

菅沼
大体、テレビでいうと多くて一日30台弱くらい、テレビレコーダーもその時に20台くらい売っていました。

内田
物を売る時の鉄則って何ですか。

菅沼
物に対しての価値があれば、営業力はいらないです。販売力というのもいらなくて、あくまで「これをどうですか」と、困ったお客様から困った時にあえて質問があった時にお答えすればいいというものです。私の考え方というのは、不動産を売るにあたっても常に価値として良いものをただ客様が持つ疑問を解決する、そういったところにあります。

内田
聞いていると、待っている受け身の姿勢のようにも聞こえますが、それではトップセールスにはならないと思うのですよね。それプラスアルファの何かご自身のノウハウがあると思うのですが。

菅沼
今すぐ(欲しい)のお客様をすぐ掴まないと、一日30台売るといっても営業の時間に限りがありますから、そういう風に選別していました。

内田
(起業前に)大手の住友不動産に入ったということなんですけれども、記事を拝見していてすごく印象に残ったのが、誰よりも努力をしたということですけれども。

菅沼
私が会社に3年間いる中で、2年間営業というところになりまして、1年目というところでは全く知識もなければ取引先もなく、全くの新規になるんですね。その新規の中で、「新入社員だからただ勉強していればいいよ」というお客さんみたいな立場が嫌で1年目からやるんだったら1番を取るという気概を持ってやっていましたので、必ず月曜日から金曜日の9時、11時、1時、3時、5時、一日当たりこの5つ、月から金曜日までの5日、25コマある中を必ず埋めていこうと。それをやれば、まず数を撃てば当たるだろうと、それでアポイントを取っていこうというのが1年目の考え方ですね。

内田
まず動くんだと。一日をそういう風に分けてスケジュールを組むということで。きょうスケジュール帳もお持ちいただきましたが、見せていただけますか。

菅沼
これが会社員の時の手帳です。こういう風に手帳に書いて見えるようにしまして、(1日に)5つアポイントを取ると。

内田
住友不動産に勤めた後に起業ということなんですけれども、どういうことをやろうと思っていましたか。

菅沼
もともとは大企業にいましたので、住友不動産が凄いから売れるわけであって、菅沼勇基という個人が凄いわけではなく、住友不動産の菅沼勇基だから、ただ看板があるから選んでもらえていたのですけれども、そうではなくて私が起業したら「菅沼勇基」を信用して取引したいという、思われたいという想いですね。

内田
信頼を得るというのは商売の中では難しくて、でもそういうものを無くすと商売として成り立たなくなる。目指すところはナローパスになるかと思うのですが、どうですか。

菅沼
私どもは、あくまで「1回売れればいいや」という考えはなくて、一棟買っていただいて、その後もお付き合いを続けていただく、これが私どもの管理事業であるわけですけれども、そこの中でお付き合いさせてもらってお客様の満足度が上がったら、また二棟目、三棟目と。またその中で紹介をしていただいてというところがありますので。私どものよく使う言葉なんですけれども、「採算度外視」っていうのも私の考えにもあるのですけれども。

内田
目線が非常に長期的だということですか。

菅沼
そうですね。目先の利益よりは10年先を見て、3年先を見て、という風にやっていますので、そういう事業計画、経営計画を立ててやっています。


前のオーナーから物件を取得し、リノベーションなど付加価値をつけて新たなオーナーに仲介する不動産投資事業。取り扱う物件を買い取る先にも独自のルートを持っているのが強みと言います。

内田
(住友不動産時代に)東京の物件を見てきて、今、横浜に特化しているわけですけれども、これの違いってありますか?

菅沼
東京の物件というのは、やはりみなさんが横浜の物件よりも購入したいと。購入したいという人が多いということはその分だけ不動産の価格が上昇します。弊社のお客様の中心がこれから資産を形成したい、不動産投資をして新たにアパートを買いたい、マンションを買いたいという方なので、不動産価格が上昇して高いものですと、どうしても失敗してしまうケースが多くて、そういうところを考える時に、まだ横浜は都内に比べたら割安でありますので、それで横浜を中心にやっています。

内田
今、お買いになりたい方のニーズというのをお話になりましたよね。「資産形成をしたいんだ」ということで考えていらっしゃる。今度は(物件を)売る側の方、売りたい人の現状というのはどういう感じなんですか。

菅沼
相続を受けて全くその物件に愛情がなく、そのまま現金化したいであるとか、物件は持っているが20年経って老朽化してもお金を掛けられない。もしくは、空室が埋まらないために手放していくらか現金化したいという方が多いですね。

内田
そういう物件は数あるのですか?

菅沼
数自体はあるのですが、その中の価値というところでは、やはりみなさん1円でも高く売りたいというのがあるのですけれども、それに見合うものはなかなか無いとは思います。

内田
そういうものを見定めて、自分たちが買い取っていいものと買い取ってダメなものと、きちんと目利きをされていると思うのですけれども。

菅沼
今の私自身は、創業当時よりもノウハウ、目利きというものがより強くなったので、もっと困難な方が燃えてくるといいますか、買えないものは無いというくらい、今はなかなか無いですね。

内田
どんな物件でもどなた様かにお売りするという、売る力があるから言えることですよね。

菅沼
あとは、その物件を再生する力ですね。

内田
今お話を伺っていると、いとも簡単にお話されるんですけれども、もともとは全く入っていない人気のないアパートやマンションですよね。何がポイントなんですか?

菅沼
ポイントは幾つかあるんですけれども。アパートの間取りを変更しなければならないとか。部屋のリフォームをどこまでお金を掛けていればターゲット層に響くかとか。その中でも最小限のコストでやらなければ投資という観点から難しいのでそこを見極めるというのが大事かと思います。

内田
必要以上にリノベーションにお金を掛けないことで、運用、投資をしたい方からだと、安く物件を手に入れられるわけですよね。

菅沼
これが、例えば家賃が3000円上がったとします、そうすると年間で3万6000円になるのですが、例えば利回り10%、360万円価値があがるんですけれども、360万円価値を上げるのに500万円リフォームにお金を掛けたらですね、まったくとして投資には不適格になってしまいますので。

内田
合理的な計算というのが、意外とリノベーション不動産のビジネスにはされていなかったということですよね。

菅沼
銀行の評価とかは無視というか、見ずに、ある一点の面から見て価値を上げる。ただ、アパート、マンションの一棟となりますと、その土地の評価、建物の評価、部屋ひとつひとつバラバラにありますので、そういうところを見たり、そういうところが不動産の価値。あとは金融機関からどう見られるか、ここに係ってくるかとは思います。

内田
IoTの世界だと、騙せないといいますか、全部ばれちゃうんですよね。お客さんが全部調べて比較しますでしょうし。

菅沼
内田さんが言われるとおりで、弊社の考え方として「Amazon型」なんですけど、先ほど、家電のテレビの例でもあるのですけれども、ヤマダ電機さん、ビッグカメラさん、ヨドバシカメラさんとかありますが、お客さんはここでテレビ(の値段)を見るんですね。テレビをウインドショッピングで見て、「あっ、このテレビでよかった」。そしたら、どこで買うかというと、価格.COMを見て、Amazonに行くんですよ。Amazonだったら同じ商品届けてくれる、しかも価格はほとんど同じか変わらない。そういうことが不動産でもあり得るんじゃないかと思っていまして、私どもはそれを「Amazon型」になっていきたいと思っています。


レストランで提供する食事だけでなく、綱島産の桃や瀬谷区で作られている小麦など、醸造するビールにも地元の食材を使っています。単に原料や食材を仕入れるだけでなく、実際に生産者のもとに出向き、交流を深め、つながりを持つことが大切と太田社長は言います。

内田
今、お金余りということで、キャッシュを持っている方は沢山いるけれども、世の中的にキャッシュで持っていても増えないわけですよね。あとじゃあ株式投資かというと相場も不安定であるという意味で、不動産投資で何とか自分の資産を増やしたいという風に縋るような想いで不動産を見ている方がいっぱいいると思うんです。もっと安心して確実にリターンが得られるものにすることが、不動産投資業界がこれまでのやるべき課題だったと思うんです。でも、できなかった。それをやろうとしているなら、相当大変なことにチャレンジしていると思うんですけれども。

菅沼
あくまで私どもは、原点で売り上げ規模に拘っていないんですね。あくまでも、横浜市内でやろうと。そうした時に、横浜市内で200棟近く取引をさせていただいているので、「この何丁目だったら入りません。ここだったら入ります。」というのが分かります。戦う術というのは分かっていますから、そういったところでは、失敗しづらいとは思っています。

内田
これからのお話をお伺いしたいのですけれども。不動産というものも難しいところもありますよね。物件は過剰に出ていますから、一戸建てでいうと空室、空き家問題もありまして、その中で、まだ不動産投資というのが、利益が出る、価値がるという風に育てていくためには、色々な課題があるかと思うのですけれども。

菅沼
日本の今の環境で考えた時に供給過多、そして貸し手が弱い「借地借家法」というものが制定されて法律が改正されました。こういう中で、まだ土地活用で地主さんが相続税を払うため、相続税を圧縮するためにアパートを造り続けて、デベロッパーがマンションを造り続けている中、そういったところに不動産投資を新たにするというのは、斜陽産業に入っていくようなものなので、現実として儲からないわけです。なので、まずは「儲からない」ということを認識していただかないと、過剰に儲かるという意識があると、その時の期待と現実の差が分かった時にみなさんストレスというか、クレームになりやすいので、そういう良いことは言わないです。

内田
目先でこれをやりたいという目標はありますか?

菅沼
不動産投資というところではある程度知識は蓄積されていますので、不動産投資に係る業種、例えば保険業であるとか、建築業、アパートの建築のノウハウもありますので、そういう企業を買収して、そういったところも一貫体制でできればと思っています。(アパートなどを)買っていただくお客様が、誰が生産したか、これは農業だと当たり前なんですけれども、何々区の何々さんが作っている、そこまで公表されている。これがもう農業ではブランディングされています。建築だと誰が造ったか分かりません。何々建設というところなんですけれども、私が目指すところは、この大工さんがやっています、この設備屋さんがエアコンを入れています、そこまで生産者の顔を見て欲しいと思っています。



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5月9日放送分
「チッタが川崎にもたらす“エンタテイメント”」↑メニューへ戻る

ゲスト
株式会社チッタ エンタテインメント
代表取締役社長 美須アレッサンドロさん


【プロフィール】
1978年パリ出身
青山学院大学卒業後、広告会社勤務を経て2004年に株式会社チッタ エンタテインメント入社、2015年に代表取締役社長に就任


川崎駅東口で商業施設「ラ チッタデッラ」を運営するチッタ エンタテイメントを特集。大正時代に東京・日暮里で創業、昭和11年に川崎に進出して以来、映画館を中心にスポーツ・娯楽施設、ライブハウスなどを展開し、ハロウィンをはじめ新しいカルチャーを提案。4代目の美須アレッサンドロ社長に現在注力する新たな仕掛けと、人々を惹きつける施設運営について伺います。

内田
VTRにもありましたが、80年前(川崎駅前が)沼地だったとはびっくりしましたが、よく(その土地を)お買いになったなと。その辺りのお話は創業者から伝え聞いているものですか。

美須
当時、最初日暮里で映画館が2、3館あったと思いますが、そこから「映画のデパート」を作りたいということで、まとまった土地が必要になった。そこで川崎という場所を見つけて買ったと聞いています。

内田
そこから80年経って、美須社長で4代目。美須社長から見て川崎という町はどのように見えるんですか?

美須 
「チャンポン」の街かなと。いろいろなものが混じっていて、それこそ競馬場、飲屋街、工場があって、一方で川崎駅西口は新しいマンション、ニューファミリーが多く、東口の旧市街、雑多でディープな街がある。殿町では最先端のナノ医療研究が行われたり、羽田空港も近く、今後まだ伸びていく街だと確信しています。

内田
雑多なところ、いろいろな人、文化が行き交う街ということだと思いますが、そういう街であることと、チッタ エンタテイメントが80年川崎でやり続けられているということの関連性を見出すことはできますか?

美須
もともと創業者は映画のデパートだけでなく、銭湯、寄席などの庶民の憩いの場作りというのをやってきたと聞いています。そこからだんだんと変わってきたと思うのは、これだけ物があふれる時代の中で、そこから一歩抜け出してもっとライフスタイル、カルチャーと言うものを売っていくということを3代目(美須孝子・現会長)の頃からそういう風に方向転換してきたと思います。

内田
感心するのは、日本中の様々な繁華街・娯楽施設を見ていると、時代が切り替わるタイミングでみんなダメになってしまって、集客が途絶えて新しいものになりきれずに終わっていく。その中で川崎でやっているチッタの土地はどんどん変化をしながら生きてこられたのは、なぜでしょうか。

美須
おそらくその時の市民、川崎の方々が求めることをやったのと同時に、切り替わりのところだと思いますが、川崎の方が欲しているもの以外にも僕らが提供したいものが明確にあったから、そこの融合がうまくいった、運が良かったというのもたぶんあると思います。

内田
でも闇雲になんでもやってきたわけではないと思うんですよね。その中で選んできたものの共通点なり、ポイントがあるとしたらどんなものですか。

美須
「カルチャー」だと思います。今のチッタデッラという形になったのも、建物はイタリアの外観ですが、何もイタリアの全てを再現したかったわけじゃなくて、ライフスタイル、太陽の下で、イタリアでは飲食店のテラス席から埋まっていくんですね、暖かければ。そういうことを表現したかった。

内田
そこまでして川崎にないもの、新しいもの、川崎どころか日本中どこ探してもないですよね。そういうものを入れるんだっていう心意気はどこからくるんでしょうか。

美須
驚かせたいということだと思います。映画館の従業員にいろいろなところで「サービスって何?」ということを僕が説明するときには、「想定を超える驚き」っていうものを与える必要があるんじゃないかと思っていて、そこがベースにある気がしますね。

内田
でもタイミングの絶妙さっていうのがすごくて、歴史を振り返るともともと映画館をやって、遊園地を作って、ボーリング場もやって、キャバレーとか、どこも他がやっていないタイミングで、でも迎え入れられる準備は整ったくらいのタイミングでどんどん作っていったんですよね。

美須
もちろん全部がうまくいくわけじゃないです。ただすごいのは毎年何かをオープンしていたんですね。1960年〜70年代には毎年のように何か、ボーリング場だったり、映画館などを開けたりしていました。一方で僕は何をやっているのかなと見ると、なかなかそうはいかなくて、難しいなと。

内田
そうだと思います。時代が変わりましたから。他にないものを、でも他にないものはないという時代の中で唯一無二の存在になっていくのはとても難しい、悩むところですよね。

美須
そうは言ってもないことはないんです。川崎という場所でないものというのはやっぱりあって、それは見方にもよりますが、あくまで僕の見方ではこれは川崎にない、根付いていない。そういうものは同時に私もそこに興味を持っていればそれをやろうということになります。そういう中で今表現しようとしている業態というのはいくつかあります。


全国的な知名度を誇る「KAWASAKI Halloween」をはじめ、新しいカルチャーで独自のまちづくりを進めてきたチッタ エンタテインメイントが次に仕掛けるのが「アンティーク」。今年3月に「VAN DES COLLECTION」と名付けられた小路がオープン、個性的なアンティークショップが並びます。

内田
ハロウィンはすごいですね。びっくりしたのは道路も交通規制までしてパレードをすると。

美須
大変な協力をいただきながら、警察の方はもちろん、川崎市もそうですし。

内田
1997年からスタートして、その頃まだ日本でハロウィンパーティはそんなにメジャーじゃなかったですよね。

美須
そうだと思います。

内田
それをやることになったのはなぜでしょうか。

美須
(社内に)ハロウィンをやりたいと考えた人がいて、今イベント担当の役員をやっています。当時私は高校生なんですけど。彼が参考にしたのがベルリンのラブパレードという話を聞いていて、それこそ街中の道路をほとんどジャックして、車にスピーカーを積んでDJがいて、後ろにパレードの人が連なる。何かそういったことを表現したいというところから始まったと聞いています。僕は2回目、3回目くらいからお客さんとして出ていました。

内田
もちろん仮装して。

美須
はい、仮装をして。

内田
そういうもので地域を盛り上げることができているという喜びはあるんでしょうね。

美須
あります。もうお祭りなので、お祭りは盛り上がった方がいいに決まっていますし、その盛り上げるためにどこまでチッタの社員がやるのかという感じだと思います。

内田
地域に貢献しているというイメージに、今はなってきているんですかね。

美須
もともとは単独でしたから。そこから市の方の協力ありきで大きくなっていった。自分たちだけではあんなに大きくはできなくて。もう既にキャパオーバーですね。

内田
まさかここからスタートしたとは知りませんでした。あともう一つ、アンティークをこれからやるんだと注力されているということですが、これはどういう狙いなのですか。

美須
例えばキズモノのテーブルがあります。南仏のどこかの民家で使われていたようなテーブルに見えて、その脚がちょっと欠けていて。その商品はもうひとつしかないんですよね。同じものが一つもない。そういうアイテムを一つ部屋に置くだけでも違いが作れます。違いを作りたい方ってパワフルな人が多いと思うんですよね。普通じゃ嫌だというか、何か私はもう違いを作りたいんだという方はすごくパワーがあると思うし、そういう方がチッタに来ることは私どもにとって、それは喜びだし、カルチャーが加速度的に育っていくと思います。

内田
なるほど、一般的では収まらないような、何か特別なものを求める人はエネルギッシュで、そういう人が集まるような街になると街自体も育つ、活性化すると。ハロウィンのムーブメントみたいにアンティークのブーム、文化がここから発信されていくと面白いですね。あと他にコアビジネスというのは映画の上映ということでお客さんに来てもらっていると思います。日本の全体的な見方では人口も減っていく、では映画を見る人がどうなるかっていうと、増えていくという想定はなかなか難しい。そういう中で、このコアのビジネスの映画っていうものが今後どんな風に変化していくんだろうかということをお伺いしたいのですが。

美須
絶対に真似できないものを作らないといけないと思っていて、そういう中でチッタが何をするかというと音響に少し力を入れようと思っています。(併設のライブハウスの)クラブチッタとコラボをする。チネチッタの映画館にライブ用のスピーカーを増設して、音の微調整をクラブチッタという音響のプロ集団が入ってやるということを実際今始めています。

内田
映画館で映画を見るという楽しみは普遍的なものですよね。そういうことも含めながら、美須社長が考えるチッタエンタテイメントの将来像はどんな姿になっていくのか、何を追求していくのでしょうか。

美須
川崎ってとにかくあらゆるものが揃っていて、そういう中でチッタの生きる道っていうのは他の商店街、商業施設で売っているようなものを対抗するように売るっていうことじゃなくて、あくまでライフスタイルの提案をする。こういうカルチャーなんだと。カルチャーって成熟した市場の中で僕は必要なものだと思っていて、カルチャーが浸透するとみんながもっとハッピーになると思っています。チッタに来れば新しい発見があって、カルチャーを売っているんだと。本当に今はなんでもある時代なので、それがやっぱりチッタの生き残る道なんじゃないかと考えています。



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5月2日放送分
「地域に根差したビール造りと地ビールの未来像」↑メニューへ戻る

ゲスト
横浜ビール株式会社
代表取締役社長 太田久士さん



日本のビール発祥の地・横浜で、地元の食材を使うなど、こだわりのビール造りを行う「横浜ビール」。ビールを通した「地域とのつながり」「地元の生産者とのつながり」とは?そして、横浜ビールの未来像などについて伺いました。

内田
太田社長は、そもそも何で「地ビール」を造ろうと思われたのですか。

太田
20年前に酒税法が改正となって、地ビールが解禁となったんですね。それまでは大手しか造れなかったビールなんですけれども、ある一定量を造ればビールを造ってもいいよという法律にかわって全国地ビール屋が増えた、村おこし的なことがありましたよね。それで日本中にビール屋ができて、その時に始めたお店に今、入ってやっているということなんですよね。

内田
それはもともとあった所に、太田社長が「やろうか」ということで入られた?

太田
お話が来て。「こういうところがあるんですけど、やらない?」という風に…

内田
社長はそれを見て、どう思われたんですか。

太田
「やらない」って言った。

内田
「やらない」って言われたんですね。なぜですか?

太田
地ビールというものが初めて世に出た時に飲んだ時の印象が、「名前がややこしい」、「飲んでみたらクセがある」、「お金払おうとしたら高かった」。20年前ですよ。これは僕は好きじゃないなと思ったわけです。自分の中には、嫌いなものというか、そういう印象があったんですけど、そこでそういう話があった時には、「地ビール工場がついたレストランなんだけど、やらない?」っていわれて、「やんない、やんない。好きじゃないものやってもしょうがない」と即答で断ったくらいです。

内田
でも、おやりになったわけですよね。そこには気持の転換点があったかと思うのですけれども。

太田
ちょっと考えたんですよね。今言った私のような普通のおじさん、「名前がややこしい」、「クセがある」、「高い」と思われている方は沢山いるんだろうなと思ったわけです。ということは、自分が飲んで飲みやすい、自分が払ってこれだったらいいなと思うビールを造れるわけですよね。そうすると、大勢いるであろう私みたいな人が来てくれるんじゃないかというのが、やろうと思ったきっかけですよね。やりたくてやったわけではなくて、むしろその逆で「こういう風に思っている人は沢山いるんだろうな」と。だったら自分を基準に考えてやると大勢いるであろう私みたいな人は来てくれるんじゃないかなというので始めたんです。


桜木町駅近くの横浜ビール本店「驛の食卓」のメニューには、地元神奈川の食材とともに生産者の顔写真が載せられています。ここに横浜ビールの理念、「地産地消」への考え方が現れています。

内田
メニューに地元の食材を取り入れて拘っているということなんですが、「地産地消」というところは太田社長にとっては大事なところですか。

太田
そうです。スタイルといえば、「地産地消」という言い方をされるんですけれども、間違いじゃないんですけれども僕らは「地産地消」という言葉に少し抵抗があって、「地産地消」とか言われると「そう簡単に言わないでよ」と思っちゃいます。その地で採れたものを使って料理を作って提供する、それだけを考えると誰でもできるわけですよね。ファックス1枚で地の野菜を翌日仕入れることはできるわけですよね。それを使って「うちは地産地消です」っていうのは誰でもできることだし、それは「地産地消」というスタイルを名乗っているだけでしかない。やはり僕は、その土地で採れたものではなくて、そのものを作っている人なんですよね。その土地で採れたもの、その先にあるその奥にある人。その人とのかかわりといものを一番大切にしています。

内田
それをもう少し聞きますと、生産者とつながることで、何が起こるんですか?

太田
一言でいうと「信頼関係」が生まれますよね。お互いの信頼関係が生まれますといいますか、人と人とのかかわりが生まれますから。「あなたの想いを私を通してお客様に伝える」というものではなくて、人を私を通して人を伝える。ただ単にものだけを伝えて、ものだけをいただくというのではなくて、想いを自分を通してお客様に伝える。お客様は、想いなりストーリーを聞いて自分の街に想いを馳せるといいますかね。これが、「何とか産で、何とか栽培のサラダでございます」だけだと、あんまり伝わらないような気がするんですよね。

内田
会ってみて、これはうちのレストランには合わないから、ちょっと使いにくいな、とかで断るというのはあまりないんですか?

太田
気持が高ぶるというか、こちらから自分の想いというか、ビール屋であって、ビールを通して自分の街のことを伝えたいんだというそのままですよね。価格がうんぬんとか、作り方がうんぬんとか、まあ、作り方は安全安心というのは勿論当然のことなんですけど、そういうものはあんまりないですね。

内田
自分たちは、ビール屋ですけれども、ビールを通してみなさんの想いを横浜市民の人たちに伝えたいと言ってらっしゃる。もともと、地ビールなんて好きじゃなかったと。やるかやらないか迷ったというところからスタートして20年。その20年の間に自分たちのやるべきことはスパンと見えているわけですよ。このプロセスという中にいろいろな山谷おありになって、経営もずっと右肩上がりだったということではないと思いますが、この中の変化、移り変わりで今の理念に至ったところまでお話いただきたいです。

太田
居抜きで入るわけですから、なかなか厳しい状況で入るわけですよね。やはり10年くらいは大変でしたけれども、常に忘れないようにしていたのは、表面的なスタイルではなくて、「そもそも地ビールというけれども、地ビールってどうあるべきか」というのは考えるんですね。スタイルを完全にコピーするのが地ビールなのか。これだけのものを造っていれば、年間これだけ製造していればそれを地ビールというのか。そういうことではなくて、そもそもどうあるべきなの?地ビール、言ってみれば地酒、その土地のお酒であるべき。もちろん横浜ビールの地ビールというのは文化というまでの時間は経っていないが、「その街の人たちに愛されて地ビールでしょう…というのが自分の根本にある考えなんです。それを表現するためのスタイルというのは様々あってもいいと思うのですが、街の人たちに愛されるビール屋として、どうあるかというのは常に考えていたような気がします。


レストランで提供する食事だけでなく、綱島産の桃や瀬谷区で作られている小麦など、醸造するビールにも地元の食材を使っています。単に原料や食材を仕入れるだけでなく、実際に生産者のもとに出向き、交流を深め、つながりを持つことが大切と太田社長は言います。

内田
いろんな生産者とつながって、横浜にも良い生産者がいっぱいいるんだなと感じるんですけれども、池谷さん(桃)、岩崎さん(小麦)、すごく生産者として情熱をもっていらっしゃるんですか。

太田
小麦を作るなり、桃を代々作るという作り手としての情熱というのもそうなんですが、もっと大事なのはその人のバックボーンといいますかね、そこには家族、池谷さんの家族であったり、岩崎さんの家族であったり、生産者さんみんなそうなんですよね。私たちも同じですよね。やはり家族の想いというのをすごく感じるんですよね。小麦が欲しいというわけではなくて、その想いを受けてビールという形に変えて、自分も街だったり、家族だったりに想いを馳せるツールとしてのビール。僕も特別なことをやっているとは思っていないんですよね。もともとそうだったでしょう。街の食堂ってそうだったんじゃないのとか。ビールって、街のお酒ってそうじゃないの。もともと街ってこうだよねってことをやっているだけなんですよね。特別な理念というか、そんなに意識してはやっていないですね。

内田
ある意味、原理原則というか、太田社長が「そうでしょう」というところの原点といいますか「あるべき姿」にこだわるというのは、それが失われてしまうという危機感なのですか?

太田
やはり、自分の家族とか街、そこに誇りを持つ。その土台をつくる。オーバーな言い方かもしれませんが、これが今の日本にはすごく大事なことかと思う。

内田
今後、横浜ビールがどんなものになっていくのか。想い描いている未来の姿というものを教えていただきたいのですけれども。

太田
街のビール屋として、街のみなさんに誇りに思っていただけるビール屋になりたい、ただこの一言だけですね。何か新しいこととか考えていなくて、やることは決まっているので。自分の街を好きになろうよ、誇りを持とうよ、というベース作りといいますかね、それこそ街のビール屋の一番大事な仕事なのかもしれませんね。ビール屋がビールだけ作っていてはいけない、それだけではいけないというのは思っていて、「ビールを通して何を伝えるか」ということですよね。「ビールを通して何を想ってもらいたいか」ということですかね。それが一番大事なことだと思います。



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